東京・中央区 株式会社AGSコンサルティング
代表取締役社長 公認会計士・税理士
廣渡 嘉秀氏
1990年早稲田大学商学部卒業後、センチュリー監査法人(現新日本監査法人)に入所。国際部(KPMG)に所属。1994年に公認会計士登録し、株式会社AGSコンサルティングに入社。同年、自身の公認会計士事務所も開設する。2004年には新日本監査法人を退所し、株式会社AGSコンサルティングでの業務に集中。現在は代表取締役社長として、その手腕を発揮する。
公認会計士を目指したきっかけ
高校生の頃、福岡の中でも田舎のほうにある学校に通っていましたが、卒業したら東京で活躍したいという熱意を強く持っていました。県民性とでもいいますか、真面目なタイプは地元の国立大学を目指す人が多いのですが、僕のような跳ねっ返りや向上心が強すぎるタイプは東京に目を向けることが多かったように思います。それで、東京の大学への進学を希望しました。大学時代、実は映画監督になりたいという夢を持っていたんです。そのため、芸術活動が盛んであった早稲田大学を志望し文学部を目指したのですが、結局商学部のほうで引っかかりまして、入学してからは勉強そっちのけで8ミリカメラを回していました。入学後、2年間は映画サークルに入り、無我夢中で映画作りに打ち込んでいました。ただ、そうした活動のなかで非凡な芸術センスを持つ人物にも数多く出会い、徐々に自分の才能の無さを感じていきました。別の道を進むべきだと考える中、商学部で学んでいた経営学に打ち込むようになったんです。
当時は景気もよく、就職先には困らない時代でした。周りの仲間は大手銀行や商社に入っていきましたが、それではなんだかつまらないなと考えたあまのじゃくな私は、公認会計士の資格を取ってみんなと違う道を進もうと決意しました。大学3年になって目標を定めてからは、それまでは嫌いだった会計学を猛烈に学ぶようになりました。就職天国だったその時代、あえてダブルスクールという選択をした私の行動は、周りからみたら不可解なものだったと思います。しかし今振り返ってみると、ダブルスクールという苦労を乗り越えたことは、私にとって大きな財産となっています。その一つが同世代間のつながりです。当時の会計士試験は1度に700人程度しか合格者がいなかったのですが、そこでの出会いは今でも大切なつながりになっています。TACでいつも顔を合わせていた連中は、今では業界の第一線で活躍されている方ばかりですし、横のつながりを持って業界全体を底上げしていこうという仲間意識を感じています。
大学卒業後1年目で会計士試験2次試験に合格し、その年の10月にはセンチュリー監査法人(現在の新日本監査法人)に入所しました。早稲田大学に入学できたのと同様に、卒業1年目で会計士試験に合格できたのはラッキーでした。しかし、その幸運に浸るつもりはなく、監査法人に入ったからにはできるだけ早く一人前になりたいと考えた私は、業務は厳しいが成長も早いと言われていた国際部への所属を希望したんです。
32歳で新日本監査法人の最年少パートナーへ
監査法人へ入所した当時は、会計士の3次試験に合格したら辞めるつもりでした。監査業務を経験させてもらった後、個人で独立しようと考えていまして、だからこそ長期間の下積みが求められそうな大手監査法人は避け、短期間で濃密な経験を得られそうなセンチュリーの国際部を希望したんです。待遇面だけでいえば、もっと条件のいいところはありましたが、センチュリー監査法人の国際部には実力のあるメンバーが集まっていましたし、業務内容が非常に刺激的である点にも魅力を感じました。当時は150人くらいだったと思いますが、みな優秀でエッジが効いていて、別の言い方をすれば変わり者が多かった(笑)。安定がほしいならもっと別の道もあったのに、あえてここを選んできたような人たちでしたから、当然といえば当然だったかもしれません。常に人とは違うことをやってやろうと考えていた私にはピッタリの場所でしたし、とても良くしてもらいました。次々と仕事をこなし、知識や経験を積み重ねていきました。
そして、予定通り入所3年で3次試験を終え、公認会計士登録ができる状態になりました。すぐに転職活動を行い、社会人となったちょうど4年目にAGSに入りました。AGSの現会長であるかん澤が当時のセンチュリー監査法人の代表社員とAGSの代表を兼任していて、私も同じように監査と税務を両立させてもらえることとなったのです。センチュリーの国際部から一度退職した私は国内部に入り直すカタチを取り、AGSと二足のわらじを履くこととなります。当時のAGSではベンチャー企業のIPO支援を中心に行っており、上場後の監査についてはセンチュリー監査法人で担当しておりました。伸び盛りの企業と二人三脚で成長して、上場後はセンチュリーで監査をする、という流れのなか、センチュリーの中では私が現場の責任者である主査を務めていました。
私が担当したベンチャー企業の中には、それまでに前例が無く、法律にも定められていないような事業でIPOを目指そうとする企業も多くありました。そのようなベンチャー企業を多数担当していたら、そのうち判断の難しい監査報告書にサインをしてくれるパートナー社員が足りなくなってしまったんです。前例がないことを承認することはリスクにもなりますからね。そのような状況の中、主査として現場のことを把握している「廣渡がサインをするしかない」という意見が出て、異例中の異例ということでしたが、サインをするためにいわゆるパートナーに抜擢していただいたのです。正確にはシニアマネージャーという役職でしたが、そのお陰でサインができる立場になりました。
それが32歳のとき。この歳で大手監査法人のサイナーになったのは多分業界最年少記録だったと思いますし、今でも塗り替えられていないのでは。出世が早いといわれる部署でも30歳後半、普通は40歳以降の話だと思います。「お前、かん澤先生のところでうまくやったんだな」と、だいぶなじられましたね(笑)。私としては出世に思い入れはなく、単純に好きな仕事を一生懸命やった結果として立場がついてきたと軽くとらえていましたが、実際はスピード出世過ぎて多少軋轢もありましたね。
ベンチャーという新しいビジネスであることも手伝って、財務局などからは「前例がありません」「監査上、これで責任取れますか」とよく厳しいコメントをいただきました。窓口の方も、サイナーが元気のよさそうな若造なものだから、やっぱり不安に思われてしまうんです。いろいろなところで頭を下げましたよ。法人内の審査部の偉い先生のところに馳せ参じては「また難しいこと聞きに来たのか」と、よく怒られてました。初めてのことだけに、間違った会計処理を認めてしまったら監査法人全体の汚点になってしまいますし、ベンチャーは会計処理をひとつ間違うと大事に至りやすいので。
しかし、熱意を持って駆けまわったおかげで、IPO支援事業は着実に成長していきました。私が携わるようになって5年後の1999年には新興市場が登場し、IPO熱はさらに高まりました。この時代に隆盛したベンチャーのかなりの数を、手がけてこれたと思います。
総合病院のような会計事務所を目指していく
業務がますます波に乗る一方、社会的に監査の独立性が問題視され始めたころに、AGSの業務に専念するため監査法人を退所する意思を固めました。実際に退所したのは2004年。クライアントとの関係もあるので結局辞めるまでに約2年かかりました。
2005年頃からはAGSとしての活動をより積極的にはじめました。ある年については、年間49社の新規上場のうちの6社に当社が携わるなど、多くの証券会社からは「AGSは準大手ではなく、もはや大手証券並みだね」と驚かれたものです。リーマン・ショック後はご存知の通りIPOの勢いが下振れしますが、当社のIPO支援業務は実質的に日本トップだったと思います。
会社と共に私の立場も変わっていき、2008年には現職の代表取締役社長に選任されました。AGSがここまで大きく成長できたのも、周りの人に恵まれていたことが一番にあると思います。特に創業者であるかん澤先生本人も、私の行動を抑制させるようなことは一切なく、「いいじゃないか」となんでもやらせてくれたのです。自分の事務所で30代の若造が好き勝手にやろうとしていれば目障りに思うのが普通ですが、かん澤先生は人を信頼して任せてくれるのです。そのかわり目標のハードルはどんどん上げられるのですが(笑)、文句をいわず見守ってくれたからこそ、メンバーが皆、実力を最大限に発揮し高い目標をクリアし続けられているのだと思います。
リーマン・ショック後は企業再生支援事業にも注力するようになり、現在では事業の大きな柱になりました。また、長年関東圏の一カ所集中でいたのですが、事業エリアの拡大を図るため、大阪と名古屋、福岡に支社を設立しました。地方には、当社のようなコンシェルジュサービスを提供している事務所は少ないと気づいたからです。一大決心でしたが、期待通り順調な成果を上げています。海外にも積極的に進出し、5年かけて41カ国94都市をカバーするに至りました。今後も海外事業の規模を拡大し、「Accounting Global Service」の社名通り、「会計を主軸とした業務を世界規模で提供」したいと思っています。
最終的に私が目指しているのは、総合会計事務所です。病院でいえば、どんな症状でも受け付けてくれて敷居も低い総合病院。これまでの会計業界は、いわゆる個人事務所のクリニックか、監査法人のような専門性も高いが多少敷居も高い大学病院の二極化だったと思います。ですから、どこの科にも有能な専門医を在籍させた総合病院の存在意義はとても大きいと感じていますし、将来的に会計業界で勝ち残っていくための条件だと思います。そのためには投資を惜しみませんし、メンバーにはそれぞれの科の第一人者になるよう努力してもらっています。
カイケイ・ファンをご覧の皆様にひと言
これから会計業界を目指す方々には、せっかく難しい試験を目指したのであれば、会計人としてできることの幅広さを知らずに、こぢんまりと終わってほしくないと考えています。若いうちは会計人としての基礎体力をつけつつ、アンテナを張って情報収集をしてください。集めた情報の中からやりたいことが見つかったら、勇気を出して一歩を踏み出し、成功に向かって進んでほしいと思います。
人生は二者択一の連続ですが、成功するためには2種類の努力が必要となります。ひとつは勝つための選択肢を創り出す努力、もうひとつは決断した選択肢を成功させるために集中する努力です。成功している人はなるべく5対5のまま勝負をせず、少しでも勝つ可能性を高めているのです。「綱引き」をイメージすると、5対5よりも9対1の方が圧倒的に有利ですからね。一方で、勇気を出して決断したのであれば、成功させるための努力に意識を集中させることです。たとえ不安な気持ちがあったとしても。
みなさんもぜひ、勇気を持った行動でそれぞれの成功を目指して下さい。
(2013年7月12日掲載)